深海魚

花びらに埋もれてこのまま 死んでもいいと思った

「蒼写真」考〜「少年」と3つの"あお"〜

関ジャニ∞の歌詞が美しい曲を選べ、と言われたら「蒼写真」は私の中で三本の指に入るほどに美しい歌詞の曲だと思う。

「大阪ロマネスク」「クジラとペンギン」に続いて第三弾。今回も同様に「蒼写真」の歌詞について自由に自己解釈を述べていきます。

 


登場人物/時代考証

この歌に登場するのは少年、僕、君である。

笑いかける君は僕になって

という歌詞にあるように(少年時代の)君=僕である。

二人称の"君"と一人称の"僕"を同一視することで、客観視的視点をもたらしているのだ。

また、この曲の中で「僕」は、回想しているように少年を見つめている。つまり君=少年でもある。

少年のころを「あの日」と形容する「僕」は、その頃より時間が経って 大人になっているのだ。

つまり、蒼写真は「少年」=「君」=「僕」で、「少年」=「君」を大人になった「僕」が見つめている、という歌詞なのである。

 


蒼写真での「少年」の描かれ方


「少年」は一般的に小学入学〜高校卒業くらいまでの男児の年齢層を指す言葉で、6歳から18歳とその幅は広い。

蒼写真では「遊び疲れた帰り道 大きな背中で見る夢」「小さな手引かれ」という歌詞から、その期間の中でも 小学校低学年ごろのような、幼い印象を受ける。

この年齢の"少年"は一般的な少年の苦悩を描く小説や歌詞のように 「人生の選択肢の岐路に立たされ、子どもと大人の狭間で悩むような少年像」には当てはまらない。*1蒼写真の少年は、まっさらな、選択肢が多くある/未来がいくらでもある時代の象徴として描かれているのではないだろうか。

 

いつも満たされた訳じゃない だけど明日に胸躍らせ 

雲を掴もうと伸ばした手は あの日の少年の夢


サビで繰り返す上記の歌詞は、大人の「僕」が少年のころの自分を回想しながら、今の自分自身と向き合っている歌詞なのである。

 


蒼写真の季節


1番で歌われる「夏草」は夏に生える青々とした草のことである。読んで字の如く、これは夏の季語である。

一方、2番で歌われる「露草」は小さな青い花をつける草である。露草は、秋の季語である*2

1番の歌詞に登場する「祭り」「花火」は、夏を彷彿とさせる単語である。

また、2番は「吹く風が冷たくなったら 虫の声を待って夜更かし」という歌詞で風の冷たさと、虫の声(これも秋の季語)で秋に季節が変化していることを示している。

夏草、露草を並べることで、1番と2番で夏と秋の記憶がそれぞれ蘇っていることを表しているのだろう。

また、1番と2番を通して「少年」時代の描写は夜で、少年の頃を回想する大人の「僕」は日中(昼)にいる。

時間帯があらわれている歌詞は以下の通りだ。

祭りのあと 花火の跡→夜

よく見えた星空→夜


雲を掴もうと伸ばした手→昼

時間軸が正反対であることで、1番と2番のAメロBメロの歌詞がより一層回想らしく、サビの歌詞は大人の「僕」の"現実"であるように、対照的に描かれているのだ。

 


「帰り道」の記憶


1番で描かれる、遊び疲れた「帰り道」

2番で描かれる、星空の「帰り道」

 

1番と2番通して描かれる「帰り道」の歌詞は何を意味するのだろうか。

1番の「帰り道」では、祭りの賑やかとは反対に、遊びが終わったあとの寂寥感を感じる。

2番の「帰り道」では外で夜更かしをする、という子どもにとっては一大イベントから自宅へ戻る淋しいさを感じる。

一方で、蒼写真の「帰り道」には必ず大人の背中に乗ったり 大人の手に引かれた記憶が伴う。淋しいだけではない、大人に導かれて家路に帰る安心感が読み取れる。

この「少年」の帰り道の記憶に必ず大人が伴うというのは、深読みすると 大人になった「僕」が少年であった頃の「君」を導くことのできる存在になっているだろうか?という迷いや、少年の頃の大人への憧憬にも感じられる。

 

 

「青」「蒼」「群青」ー3つの"あお"の描写


「蒼写真」の歌詞には、2種類の"あお"が登場する。

まずは、「青」。

サビの「青い時」というフレーズにあらわれる。

未熟さ、若い頃をあらわす言葉として用いられる一般的な用語と同じような使われ方である。


次に「群青」の写真について。

群青は、ウルトラマリンの鮮やかで濃い青。深い青。

少年が思い出を回想するとき、その思い出は色褪せる部分もある。しかし写真の中では、思い出がそのまま保存されている。青い思い出がありありと、昔の状態のまま鮮やかに保存されている、ということで写真の色は「群青」なのだと思う。


蒼は、草が青く茂る様子をあらわす日本の伝統色。

"青写真"は、そもそも複写をするときに青くなる写真のことである。それを設計図として利用したことにより、「未来の計画、構想、設計図」という意味を持つようになった。

この青写真という言葉を題にするとき、敢えて青を「蒼」に置き換えたのは、少年時代の僕の心象風景としてうつる青色、として青よりも深みのある"蒼"が用いられたのではないだろうか。

また、蒼は歌詞に登場する「夏草」「露草」の色ともリンクする。

 


まとめ


蒼写真のこの歌詞に、今年は何度胸を打たれ 涙しそうになっただろう。

「蒼写真」は大人になった「僕」が無邪気な少年の頃の自分を回想しながら、自分自身が選んできた道のりを肯定する歌詞である。


「いつも満たされたわけじゃない」とあるように、過去の自分の全てが正解だとは この歌詞は言っていない。

だけど、

時計の針があの頃まで もう一度 戻ったとしても

きっと同じ道を選んで 悩み歩いてきただろう

とあるように、過去の自分の選択は正しかった、と肯定しているのである。


まるで横山さんが「自分の人生に花マルをつけられるように」と かつて言っていたように。


過去の無邪気な自分が、今の大人になった自分を見たときに顔向けできるような自分でいること。

そんなことを思い出させてくれるのが関ジャニ∞「蒼写真」だ。

*1:関ジャニ∞の「BOY」、谷崎潤一郎「少年」など

*2:露草f:id:confi818:20191018214009j:image

関ジャニ∞に贈りたい「みだれ髪」短歌選

 

 

「みだれ髪」を学生時代、研究していたことがあった。近代的なモチーフと平安文学のような古典的モチーフが入り混ざった、この短歌集が私はとても好きです。ちなみに、私のフォロワーさんでもしかしたら覚えていらっしゃる方がいるかもしれないのですが、藤島武二さんが描いた「みだれ髪」の装丁が大好きで、一時期アイコンがみだれ髪の表紙絵でした。f:id:confi818:20191013004650j:image

はじめて私が「みだれ髪」を手にとったのは、俵万智さんの『みだれ髪 チョコレート語訳』という現代アレンジのみだれ髪だったため、その影響も受けつつ、研究していた頃の知識を朧げながら思い出しつつ意訳してみました。原文訳では与謝野晶子と鉄幹、登美子の恋愛事情が鑑みられたものが多いのですが、今回は主旨と離れてしまうので、無視しています。(そのため専門の方には怒られそうな訳もありますが、関ジャニ∞のファンのお遊びだと思っていただけると幸いです)

関ジャニ∞各メンバーに3つずつ、選んでいます。どの部分にその人らしさを感じたのかは、完全に私の主観ですので悪しからず。


太文字→本文(基本的に原文ママ、旧字)

括弧→自己解釈

*本来の意味からは大きく離れないように、現代風に意訳している部分もあります。

 

 

 

春雨にぬれて君こし草の門よおもはれ顔の海棠の花

(春の雨に濡れた君が私の家に来た夕べ。恥じらう可憐な海棠*1の花よ)


しろ百合はそれその人の高きおもひおもわは艶ふ紅芙蓉こそ

(白百合の君は気高い心。その美貌を思い起こせば艶やかに香る紅芙蓉*2 )

 

春にがき貝多羅葉の名をききて堂の夕日に友の世泣きぬ 

(貝多羅葉*3の名前を聞いて、出家する友人を思って涙してしまった。青春は苦い)

 


血ぞもゆるかさむひと夜の夢の宿春を行く人神おとしめな

(血が燃える たった一夜の夢の宿で嵩む想い。青春*4に生きる人を 神様、おとしめないで)


くれなゐの薔薇のかさねの唇に霊の香のなき歌のせますな

(紅の薔薇の花びらを重ねたような唇。この唇で魂の香りのしない歌はうたうことができない)


歌にきけな誰れ野の花に紅き否むおもむきあるかな春罪もつ子

(歌に聞いておくれ。誰が野の花の中にある赤い花を否定することができるの。恋の色を持つ赤い花にこそ趣がある。青春の恋という名の罪を持つ人よ)

 

 

神の背にひろきながめをねがはずや今かたかたの袖ぞむらさき*5

(神の広い背中に恋い焦がれる。しっかりとした貴方に向かう濃紫の袖)


恋をわれもろしと知りぬ別れかねおさへし袂風の吹きし時

(恋は脆いものだと知った。別れることに耐えられないでいると、袂に風が吹いてきた)

 

わすれがたきとのみに趣味をみとめませ説かじ紫その秋の花

(忘れられない出来事だった。私はこれ以上あなたに思いを伝えることはしない、あなたを思い出させる紫の秋の花のように)

 

 

清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みな美しき

(祇園を通って清水寺へ向かう桜と月が美しい夜。今夜出逢う恋人たちはみんな美しい)

 

みさういとどしたしみやすきなつかしき若葉木立の中の盧遮那仏

(かっこよくて親しみやすくてどこか懐かしい顔をした、若葉の中にたたずむ盧舎那仏)

 

ゆく春をえらびよしある絹袷衣(きぬあはせ)ねびのよそめを一人に問ひぬ

上着を羽織る、春が過ぎ去ろうとしている今。僕はあの頃よりも少しは大人になっただろうか?と一人自問自答した。)

 

 

うすものの二尺のたもとすべりおちて蛍ながるる夜風の青き

(貴方との夜の逢瀬、ショールの袖からすべり落ちて流れる蛍の光、夜風は青い)


さびしさに百二十里をそぞろ来ぬと云ふ人あらばあらば如何ならむ

(「貴女に会いたい寂しさに、500キロ*6をひたすら来たんだ」と言う貴方がいたなら、いたとしたらどうしよう)

 

美しき命を惜しと神のいひぬ願ひのそれは果たしてし今

(命に変えてもこの恋を叶えたかった。美しい命を惜しいと神が言ったから、願いが果たされた今もなおこの命は存在する)

 

 

わが歌に瞳のいろをうるませしその君去りて十日たちにけり

(私の歌に瞳の色を潤ませた君が去って十日が経った)


ふりかえり許したまへの袖だたみ闇くる風に春ときめきぬ

(「ごめんね」と振り返りながら、シャツの袖をたたむ君。春の夜の風に貴方の匂いがしてときめいた)

 

そのはてにのこるは何と問ふな説くな友よ歌あれ終の十字架

(友よ、その旅の終着地に残るのは何?と聞かないで、言わないで。歌は誓いの十字架)

 

 

いさめますか道ときますかさとしますか宿世のよそに血を召しませな

(考えを改めさせますか?道徳を説きますか?それとも諭しますか?宿命と呼べるこの世界を置いて、情熱の血を注ぐことはできない)

 

花にそむきダビデの歌を誦せむにはあまりに若き我身とぞ思ふ

(恋愛をすることを諦めて、ダビデの聖歌を歌うには、自分はあまりにも若すぎる、などと思う)

 

歌は君酔ひのすさびと墨ひかばさても消ゆべしさても消ゆべし 

(酔っぱらって歌を書いたけど、我に返って消してしまった貴方。たとえ歌を消しても消えない恋心)

 

 

神よとはにわかきまどひのあやまちとこの子の悔ゆる歌ききますな

(神様、どうか永遠に この子の歌を聞かないで。若き日の迷いと過ちを悔いる歌を)

 

しら梅は袖に湯の香は下のきぬにかりそめながら君さらばさらば

(上着には梅の香り、服の下には湯の香りを残して、君はサヨウナラを告げる)

 

それ終に夢にはあらぬそら語り中のともしびいつ君きえし 

(あなたの見ている夢はついに夢ではなくなった。遠い夢の中、空想で語っていた灯火は君が現実にしてくれたことで消えた)

 

 


(番外編) エイト担

もろき虹の七いろ恋ふるちさき者よめでたからずや魔神の翼

(壊れやすい虹の七色に恋する小さな可愛らしい人たちは、神から背いた悪魔の翼を愛でるだろう)

 

とき髪を若枝にからむ風の西よ二尺に足らぬうつくしき虹

(東から西へ吹く風で長い髪が絡まる若枝よ。その遠くに見える美しい虹)

*1:かいどう。その花の美しさは「海棠の眠り、いまだ足らざるのみ」と楊貴妃の眠る姿に喩えられたほど。美人の形容に用いられる。f:id:confi818:20191013030826j:image

*2:べにふよう。朝に咲いて夕には萎んでしまう花。f:id:confi818:20191013110814j:image

*3:ばいたらよう。仏教国ではこれに教文を書くそうだ

*4:「みだれ髪」における春は概ね青春と訳すのが正しい。

*5:初出では「袖ぞむらさき」、以降「袖こむらさき」

*6:東京-大阪間(車移動)は約500km

「クジラとペンギン」歌詞考〜逆説の恋〜

 

・はじめに

「クジラとペンギン」は関ジャニ∞ 25枚目のシングル「ココロ空モヨウ」*1通常盤収録のカップリング曲だ。

 

以前こちらの記事で(「大阪ロマネスク」を文学的に解釈してみる - 深海魚)「大阪ロマネスク」の歌詞解釈をしたのと同様に 今回はこの曲について考えていこうと思う。

 


・視点に関して

まず、タイトルが「クジラとペンギン」ということで、登場人物はクジラとペンギンだとわかる。しかしながら歌詞中には「クジラ」と「ペンギン」といった名詞が登場せず、風景描写のみでクジラとペンギンをあらわしている。

曲中では、

1番「僕」=クジラ、「君」=ペンギン

2番「僕」=ペンギン、「君」=クジラ

と視点が入れ替わっているのが歌詞から読み取れる。

 

また、落ちサビの「思い出が増えるたび…」というフレーズからは クジラとペンギン、両方の視点からも読み取れるような歌詞となっている。

 


・クジラとペンギンの逆説の恋


クジラとペンギンは種属ちがいの「結ばれない恋」を描いた歌詞である。

「言葉じゃ通じ合えない」「抱き合う術もない」「見てきた景色は違う」と、言語や愛情表現、五感においても 隔たりと種属のちがいによる超えられない壁が存在することが歌詞から想像できる。

また、「許す限りの時を一緒にいたい」という歌詞からは、愛し合っているのに 一緒にいられる時間に限りがあること=寿命のちがい が読み取れる。

ちなみに、クジラは種類にもよるが基本的に大型の個体は70年から100年ほど生きるそうだ。一方、クジラと同圏内に生息しうるペンギンの寿命は最長でも20年ほどらしい。ペンギンはクジラの1/3以下の生命しか持っていないのだ。


そんな、種属のちがいによって"結ばれない恋"のクジラとペンギン。しかし、この曲は決して悲観的ではない。


「結ばれない恋だけどずっと愛してる」

と曲の冒頭と、クジラ視点の1番、ペンギン視点の2番のサビで歌われる歌詞。

"だけど"という逆接の接続詞を用いて、「結ばれない」恋を否定して、「ずっと愛してる」という。

数式にすると、

結ばれない恋≠ずっとずっと愛してる

のようになる。

これは、クジラもペンギンも、自らは結ばれない恋だというのは解っているけれど、"結ばれない"という現実を受け入れたくないが故に、"だけど"という逆接が使われているように思える。


この歌詞が、最後のクジラとペンギン両視点から読み取れるサビの中では

「結ばれない恋だってずっとずっと愛してる」

に変化する。

"だって"というのは同列をあらわす接続詞だ。

数式にすると、

結ばれない恋=ずっとずっと愛してる

のようになる。


クジラとペンギンが「結ばれない恋」であるからこそ「ずっとずっと愛してる」。この曲の最後に、結ばれないことさえもお互いに受け入れている様子がうかがえる。

また、「ずっと」が反復されることで 結ばれないことにマイナスな気持ちを抱きながら何度も繰り返された「愛してる」の言葉が、未来への確信と愛の深みをもって「ずっとずっと愛してる」というフレーズに変化している。


結ばれない恋への否定的な気持ちと、前向きな気持ちの葛藤が窺える歌詞が他にもある。


「僕ら出逢ってしまった」という"しまった"の部分に読み取れる後悔の念。

後悔とは、実際の選択肢の前に選択できたはずの可能性についてあらわれる感情のことだ。

この歌詞の中で恋に落ちるクジラとペンギンは、種属も生きる場所も違うため、「出逢わない未来」も存在し得た。

しかし、「出逢ったこと」自体が後悔するに値する、ということは 出逢ってしまったからには恋に落ちて愛し合うことは必然であったことのように理解できる。

 

また、how long… go on…は、和訳すると「いつまで続ける」といったような意味だ。

文法的にいうと、"How long will you go on〜"で「いつまで〜するつもりだ」とかそういう意味にもなる。


よって、サビ後の英語詞は、

(クジラとペンギンのこの関係は)いつまで…いつまで…続くの…続くの…

と読み取れる。


このフレーズが何度も繰り返される一方、

live with you(君と一緒に生きる)という肯定的な英語詞も繰り返される。

「君と一緒に暮らしたい、生きたい」という願望をあらわす英語ではなく、live with youと断定する言い回し。

一緒に生きる、という愛のかたちは揺るがないのだ。

 

 

・まとめ

 

愛しあっているのに、言葉が通じ合えない。ただ、感情が分かり合える。

生まれた場所もいままで見てきた景色も違うけれど、出逢ってからは同じ景色を共有している。

結ばれない恋だと理解しているけれど、愛していて、それは決して否定的な想いではない。


こんな「クジラとペンギン」のパラドックスは、アイドルとファンの距離感によく似ている。

アイドルとファンは同じ人間だけど、埋まることのない一定の距離がある。これは、愛される者(アイドル)/応援する者(ファン)の適切なかたちだ。しかし、この埋まることのない距離に、切なくなる瞬間というのも アイドルを応援していれば必ず訪れるのではないだろうか。


ファンがアイドルに感じる「結ばれない恋」ごころをアイドルがファンに向けて歌う、という"逆転した構図"になるというのも、この曲が面白い理由のひとつである。


切ないのに、どこか暖かいーーークジラとペンギンを聴いた時に抱くこの感情は、確かに私が彼らを想うときの感情とよく似ている。

*1:2013年12月4日発売

覚悟と変化-「安田章大」というアイドルについて

 

 

安田章大さん、35歳のお誕生日おめでとうございます。

こんな精神的にドタバタしたなかで誕生日を迎えることになるとは思っていませんでした。

でも、安くんはずっと、「覚悟」を決めていたんだろうな。

 


ここ一年の安くんの「変化」といえば、耳に大きなピアス穴が空いたことだ。

それに関して、アイドルとして好みかそうでないかという"感想"はあるにしても、「やめてほしい」とは思ったことがない。

 


なぜ安くんはピアスを開けるのだろう?

なぜ安くんは髪型を気まぐれに変えるのだろう?

 


このような「なぜ」を考えてしまうのが、人間の良くないところだと思いながらも、その理由と原因を知りたくなってしまう。

ただ、この「なぜ」の完全な答えってないんじゃないか、と思う。

病気をしたから考え方が変わった。自分らしくいようとしてピアスを開けた。この二文に科学的な根拠というものは何もないけれど、人はこれらの因果関係がわかると、考えに筋が通り納得感を持つことができる。

でも、そこにあるのはただの事実で。

因果も何もない「事実」が転がっている、ただそれだけのことだろう、と私は受け取めている。

 


関ジャニ∞が5人になって、7等分だった背負うものが5等分になって。でも、増えた荷物は消して綺麗に平等じゃないと思う。

それぞれの得意なところと苦手なところがあって、歪ながらも補い合う姿をずっと見てきたから、分かること。

 


2人のギタリストが抜けてしまって、唯一のギタリストになった安くん。

2人のボーカリストが抜けてしまって、いつの間にかハモりよりもメインパートを歌うことが増えた安くん。

 


関ジャニ∞の音楽の要を担ってきた2人が抜けて、安くんの音楽面の負担はぐっと増えるだろう。

 


でも、あのGR8EST北海道初日で「音を楽に奏でられなかった」と冷静に分析する安くんなら、きっと、大丈夫。

 

 

 


関ジャニ∞にとって、安くんの病気と怪我が自らの今後や進退までもを考えさせるほど 重いものだとは、正直思いもしなかった。

「明日も健康で、舞台に立てる」

この、当たり前すぎて疑いもしなかったことを、改めて事実として突きつけられたのだろうか。

ボク。で、同じように脳の手術をして病と闘った友人が亡くなってしまったことを告白した安くん。

病気になったと同時に、近くに死を感じることで、自分の限りある時間を実感したのは想像に容易い。

でも、それでも、その限りある時間を「関ジャニ∞」として活動しようとしてくれる安くんの覚悟を、私はずっと大切にしていきたい。

 


亮ちゃんが、最後に安くんに向けて書いた∞o'clockの歌詞。

 


色付きのレンズ越しに見える景色がこれ以上曇っていかないよう

君というヒカリで照らして連れてって

まだ見ぬ世界へ章ちゃん

 


亮ちゃんから、関ジャニ∞の未来を託すかのような。それでいて、病気すら受け入れて闘う安くんに向けた応援歌のような。

最後の最後になんて切実な、祈りにも似た願いを残していったんだろう。

 

 

 

アーティストではなく、「アイドル」としての道を歩んでいくことを選んだ安くんには、"アイドルだからできない表現"とかそんなものないって証明してほしい。

それでいて、行けるところまで何処までも「アイドル」としていてほしい。

相反する気持ちだけど、今の私が彼に望む我儘。

 


これからの一年、安くんには自分が選択した、自分の人生を謳歌してほしい。

でも、まだまだアイドルの安くんの魅力を感じていたいから、どうか健康には気をつけて。

 

 

安くんにとって、今年も愛が溢れる一年になりますように。

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『亮ちゃんから電話あって』と君が言ったから九月九日は内亮記念日

 

内亮。

りょうち。

 

口に出すのは「りょうち」だけど、文字に書くのは「内亮」がしっくりくるな、とどうでもいいことを考えてしまう。

 


本日、2019年9月9日に更新された「ウチにおいでよ」を読んだ。

 


十五祭最終日、私は「内くんが十五祭に来ていた」というツイートを読んで、一度はリツイートしたものの、すぐにそのリツイートを取り消してしまった。

だって、今までも彼の姿が目撃されたという風の噂が何度もあって、嘘か本当かわからない情報に何回心を乱されたことか分からないほどだったから。

 

でも、もし、内くんがあの十五祭に来ていたのならば。

8人の歴史を辿り、8色のペンライトが灯る十五祭に来ていたのならば。

私はとても嬉しいけれど、内くん本人か関ジャニ∞が口に出さないのであれば「そうだったら嬉しいのに」という願いを心の中に留めるだけだった。

 


私は内くんの個人ページがつくられた連載開始時から、毎週のようにブログを読んでいるけれど、彼は大切なときに大切なことを伝えてくれるときもあるし、アイドルらしく下手な写真と日常生活の言葉で流してしまうときもある。

内くんの決して器用ではなく、良くも悪くも「正直すぎる」ところが出ているブログが大好きだ。

 

だから、内くんが十五祭に行ったとして、そのことを言及することは、きっとないんだろうなって、私は勝手に思っていた。関ジャニ∞と内くんの中の思い出としてとっておいてくれてもいいと思っていた。だから 正直、真偽について知ることすら あまり期待もしていなかった。

 


そして、月曜日の仕事合間の昼休み。

いつもの月曜日お昼のルーティン。内くんのブログを確認して、最後まで読んで、息が詰まりそうになった。

 


まさか、十五祭に行ったことを自ら触れてくれるなんて。

 

スクロールした指が止まったまま、何も言葉が出てこなかった。

 

まずは、あの場所に、内くんがいて、十五祭を見てくれていたこと。そして、彼が繰り返す感動の言葉に、胸が打たれた。

 


でも、ほんとうに内くんが伝えたかったのは、十五祭の感想じゃなくて「亮ちゃんが」電話で誘ってくれたということなんじゃないか、と私は思った。

十五祭に内くんを誘ったのは他の誰かじゃなく、亮ちゃんだった。

 


内くんにとって最初で最後の唯一のシンメ。

亮ちゃんにとって最初で最後の唯一のシンメ。

 


いつしかの「片割れ」の旅立ちの報道に、内くんは何を思ったのだろう。

さらっと亮ちゃんの名前を出しているけれど、きっとその想いは、深いところに根ざしているはずだ。

 


2007年、内くんが謹慎後、はじめて舞台復帰したプレゾンに観劇しにきた亮ちゃん。そして、そのとき涙が止まらなくなって最後まで観ていられなかったことを8周年のパンフレットで告白してくれたこと。

 


2012年、自らの言葉で当時の内くんのエピソードを語るのは最後だと行った亮ちゃんが「8人目の関ジャニ∞はあなたです」と、内くんとの未来を断ち切ったこと。

 


2019年9月3日、亮ちゃんが関ジャニ∞として立つ最後の舞台に内くんを誘ったこと。

 


それぞれ並列では語れないエピソードだけれど、こうやって考えると、内くんと亮ちゃんはそれぞれの節目の場に立ち会ってきた。

そして、関ジャニ∞として内くんについて言及するのは必ず亮ちゃんが筆頭だったことを思い出す。

 

一緒に活動していた期間はあまりに短くて、ファンには何も分からないんだけど、内亮にはとにかく夢が詰まっていた。

お互いがお互いの唯一だってことが、隣り合うときも離れていても痛いくらいに伝わってきて、手を離して未来を諦めても、それでもなお、内亮を夢見てしまうくらいに特別だった。

 

 

 

たった3文の簡潔な文章を読んだだけなのに、1000文字以上に想いが文章となって溢れてしまった。

内くん、自分にだけ秘めていていい思い出を、「いま」ファンに発信してくれてありがとうね。

 

 

2019年9月9日、これから語られる内亮のエピソードがあったとしても、それは過去のものであったり、新しくエピソードが追加されたとしても「アイドル」と「そうでない者」という隔たりがあるだろう。

 

だから、これが「ジャニーズのシンメ・内亮」として、最後の記念日。

奇しくも内博貴くんの誕生日の1日前。

 

私は隣り合う姿を実際にこの目で見ることが出来なかったけれど、映像や画像で見る内亮はあまりに鮮烈だった。

すばるくんを内亮で挟む8人の関ジャニ∞の図は、8人時代の関ジャニ∞で最強の体制だと思ったよ。

いままで、内亮を夢見させてくれてありがとう。

 

二人の未来に幸多からんことを!

 

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2019年9月5日/関ジャニ∞と彼らを愛する人に宛てたなぐり書き

 

週刊誌にすっぱ抜かれて、それから世間がうるさくて。永遠なんてないと理解している自分は、その声を否定しきれなかった、それが今日この発表までで一番苦しかったな。

 

 

錦戸亮は誰かのためだけに生きているんじゃないから、ファンにとって分かりやすい「夢」とか「目標」がなければならないってことはないんだよ。ファンを納得させるだけの夢や目標がなくたって、自分の人生を生きるために辞める理由があるのなら仕方ない。

すばるくんは、歌を勉強して、音楽活動に専念するという名目だったけど、実のところは「アイドル」という肩書きを外して、アイドルのフィルターがかからない音楽がやりたかっただとか、普通に世界を見て回りたかった、だとか。そういう理由だったんだと思う。音楽ならドームツアーを回れている関ジャニ∞のほうが、よっぽどお金をかけたいい環境で音楽ができるもの。

そういうことではなく、彼らが苦しむのは、私たちの当たり前が当たり前に出来なかったり、私たちが思いも知らないところで苦悩があったりするはずだから、そこを模索しようとは思わない。

事実を伝えられたとして、私たちが納得できるとも限らないから。

 

 


でも悲しいのは、悲しい。

 


脱退も、退所も。

 


何度経験したって、それはもう変わらない。

 


だけど、すばるくんのときのように涙が溢れて止まらないなんてことはなかった。

「いつか来るかもしれない未来がこんなにも早く現実になったんだな」

冷たいようだけど、本音はそう。

 


去年の春のあの日のように、行き場のない悲しみや苦しみがあるわけではないのは、私はこの感情の対処法を既に知ってしまっているから。

 


すばるくんのほうが悲しくて、亮ちゃんのほうが悲しくない、とかじゃなくて、一度経験したことのある感情はある程度整理をつけやすい。

 

ごちゃごちゃ纏まらない頭で思うのは、願はくは、関ジャニ∞を背負う5人の背中が責任で重く潰されませんように、ということ。世間から「残された」人と言われないくらいに輝くためには、もっともっと上を、高いところを目指さないとならないように思う。ひどく険しい道のりだ。


これ以上、関ジャニ∞の心も身体も、折れてしまわないように、大切に大切にしていきたいのに、47都道府県ツアーが発表されて。

無理矢理にでも、前を向くしかないのだと、言われているようで。今までだってそうしてきたから、それしか知らないのだと言うように。

 


GR8ESTでもツアーを回りながらファンも関ジャニ∞自身も感情を片付けていったいたように思う。ツアーで直接関ジャニ∞を感じると、もう少し何かは変わると思う。この行き場のない感情はいつか片付くはずだから。

 

 

 

アイドルにだって人生選択の自由はあると、私は常々思っている。だけど、個人の人生選択と同時に「グループ」というものも1つの人生なのだなぁ、と今回の件で痛感した。

共同体であるが故に、ひたすら相互の努力によってでしか成り立たないもの。

全員が必死になって、同じ目標を共有していないとグループは続かない。やりたいことが別の方向を向いていたとしても、今まで15年間継続して来れたのは、彼らの努力の賜物だ。

だけど、いまの「アイドル」の形態だと、人としての人生を歩んでいくことと、グループを継続させることを両立させるのは難しいんじゃないかと思う。

ここまで芸能界でキャリアを積んでいる彼らが、自分のやりたい何かを犠牲にして生きていくには、アイドルとしての寿命も残りの人生も短すぎるんじゃないかな、なんて。

 


だからこそ、グループを続ける覚悟を持った人たちには「アイドル」だから諦めてしまったものが1つでも少ないと良い。「アイドル」を長く続けることを選んだ彼らが、関ジャニ∞だからこそ見れる美しい景色が少しでも多ければ良い。

 

1人の道を選んだって、「ずっと仲間」で道は続いているのだということを彼らは十五祭で提示してくれた。そんなに背負わなくても、前にひたすら進まなくてもいいのに、彼らは一歩も二歩もファンの前を歩いてくれている。

だから、何故か彼らにこれからもついていくことに不安はない。

 

永遠なんてないことは痛いくらいに私たちは知ってしまったし、未来がどこまで続くのかもわからない。

だけど、ただ、「今」を生きて、彼らが好きだという気持ちを大切に持って、彼らが守るものを私たちも守っていきたい。

終わらない夏はないし枯れない花はない、けれど

私の十五祭が終わった。

今年の夏は短すぎた。まだまだ夢のような時間に浸っていたかったなぁ。

「十五祭」は、ひたすらに楽しくて、どこか切なくて、ほろっと涙が出て、やっぱり笑える、私の大好きな関ジャニ∞が詰まったコンサートだった。

 

十五祭、どの関ジャニ∞のファンも、「自分と関ジャニ∞の歴史」を振り返った瞬間があったんじゃないかなと思う。好きになった瞬間、楽しかったコンサートの景色、涙したあの日のこと。

 

私も、自分と関ジャニ∞の歴史をふと振り返ってしまった。


小学生のころ、初めて好きになったアイドルがいた。友達のお家に行ったとき、その子のお姉ちゃんが録画した番組で歌う、とびきりかっこいい少年がセンターで歌う姿。彼の名前は内博貴。テレビの向こうの人を、はじめて好きになった瞬間だった。

 

それから、しばらくして、音楽番組で面白いトークをしているグループを好きになった。7人の関ジャニ∞だった。

 

それから、内くんは内くんで、関ジャニ∞関ジャニ∞として私は応援してきた。

その間8人としての道が重なる瞬間を期待したこともあったけれど、2011年夏の内Q?札幌公演で語った内くんの決意を、∞祭パンフレットで亮ちゃんが語った決意を受け止めて、それぞれを応援しようと思った。

 

そして、もうひとつの決意と別れがあった2018年の春。


6人と1人と1人。

道が別れた人たちは、メディアではどうしても切り取られてしまう。なかったことにされてしまう。

私は、別れてしまったものはもう戻らないことを知っている。だから感情を切り離して、8人の過去と7人の過去を愛しながら、6人と1人と1人を応援することにしていた。

 


今回のOPを見たとき、8人のイラストに思わず涙してしまったのは、「8人が揃った未来を見る」という、もう叶うはずのない夢が、諦めていた光景が、目の前に広がっていたから。

 


なかったことにされなかった過去。美談とか哀れみなんかもなく、過去がただ「歴史」として語られること。

単純なことのように思えて、この14年間叶わなかったことだ。

 


8色のペンライトは、十五周年は「どんなファンであっても一緒に楽しもうね」という関ジャニ∞からのメッセージのように思えた。


6人の走ってきた道の途中に2人はいて、それは紛れもなく"事実"だから、事実を誰かが消すことなんて出来ないんだよね。

 


新旧入り混じったセットリストも、あの頃を彷彿させる衣装も、聴きたかったカップリング曲も、そのどれもが どのタイミングで関ジャニ∞を好きになったとしても楽しくなってしまうのは間違いなかった。


ただ過去を振り返るだけじゃなくて、「過去から生み出された今」をひたすらに生きて、みんなで共有する、という想いが、パフォーマンスに現れていて、彼らのエネルギーを受け取るこっちもヘトヘトになるくらい、熱いコンサートだった。

 

 

思い返せばGR8ESTは、どの曲にもすばるくんの声が浮かんで、歌詞にすばるくんを当てはめてしまって、関ジャニ∞自身もツアーごとに消化しきれない感情をそのままに挨拶で吐露して、それぞれの色んな複雑な気持ちが入り混じったコンサートだった。


でも恐ろしいことに、GR8ESTの公演を重ねるたびに、だんだんすばるくんのいない関ジャニ∞にも慣れていってしまっている自分もいた。なんだか、慣れることで何かが薄れてしまうような恐怖さえ覚えたこともあった。

何処かで痛みを抱えたままじゃないと、すばるくんのいた関ジャニ∞はなかったことになっちゃうんじゃないか、っていう恐怖。

 

だから今回のツアーで、8人としての歴史を提示してくれたのは、過去は消えないから6人の今を楽しんでもいい、と吹っ切れるキッカケを作ってくれたような気もして。痛みがなくたって、すばるくんが居たことも内くんが居たことも なくならないんだね。

 


永遠なんてないし、花は咲けばいつかは散るんだけど、「いまの関ジャニ∞」がくれたこの感情と、8色のペンライトの景色は、ずっと心の中に残っていると思う。