深海魚

花びらに埋もれてこのまま 死んでもいいと思った

丸山さん座長「マクベス」観劇してきました。

マクベス、行ってきました。
チケットは全滅したのですが、有難いことにフォロワーさんに譲っていただき観劇できる運びとなりました。思うことがありすぎて文章にしました。個人的な解釈をつらつらと書いていきます。

 


以下、ネタバレあり感想

《セット》
シンプルな舞台セット。左右に扉と階段、それが二階部分につながり、セットの奥に木が茂る。セットの奥や、中央の大きな扉は奥が透けて見え、それを用いた演出もありシンプルながら奥行きを感じた。後半、一階部分の扉が鏡のように映る場面があるのにも注目したい。

 

《音響》
ラッパ音や効果音の音源に加え、パーカッションとチェロ2名。マクベスの精神的混乱を現すかのような耳鳴りの音はビブラフォンボウイング(コントラバスなどの弓を使って鳴らす奏法)で表現。物語のキーとなる部分にベルの音がする。ティンパニの重厚な低音が臨場感をもたらす。

 

《物語》
・一番大きな改編のある冒頭部分について
物語の冒頭は魔女3人のシーンから始まる…と思いきや、戦闘のシーンより始まる。勇敢に戦うマクベスの瞳に迷いの色はない。使者から戦いの勝利を告げられるマクベス。これで戦いは終わったにもかかわらず敵はマクベスに襲いかかる。最後の1人まで刺したところ、その人の元に2人の青年が駆け寄る。どうやらマクベスが刺した人物の弟らしい。弟は、マクベスを睨みつけ、切り掛かる。マクベスはそれを躱し、弟らも殺すが後悔の念を感じる。ここで、原作1幕3場のマクベスの台詞、「こんな、いいとも悪いとも言える日は初めてだ。」
マクベスに刺され、倒れていた敵がヨロヨロ起き上がりマクベスの周りに群がる。まるでマクベスを呪う亡霊のようだ。その亡霊のうち三人が舞台上で不思議に踊る。瞳の部分だけが光り、なんとも不気味だ。ここで原作の冒頭の台詞に移る。魔女が魔物(男)に変更されているのもこのマクベスの大きな特徴であった。
そして物語は原作の通り、駆け抜けていくように進んでいく。

・登場人物について
マクベス夫人の第一印象は、やけに近代的でフェミニズムな雰囲気を感じ、この物語から浮いた印象を受けた。原作を読んで、マクベス夫人は夫を唆し王を殺させ、自らの地位を上げる為の悪女といったイメージであったのだが、丸山版マクベスにおけるマクベス夫人は、パンフレットにあったように、夫のために身を尽くそうとした結果、手段を選ばなくなり破滅していった女に見えた。その姿は非常に女性らしい姿であり、夫に王を殺させるという一見すると野心ある男性的な行動も、実は全てマクベスを想ってのことであったのではないかという推測もできる。

 

マクベスに仕える人物達というのも個性的で、それぞれに意思が働いて行動していっているので、この「マクベス」に生きる全ての人物にもストーリーがあるのだと感じた。(一度しか観劇できないので、この辺りは曖昧なのですが何度か観れたらマクベスの周辺にも感情移入することのできる余裕も生まれるのかなぁと思いました)

 

マクベスが没落していくにつれ、遠藤さん演じるマクダフの真っ直ぐな忠誠心が際立ち、この物語の中で秩序というものはあまりない印象を受けたのだが、マクダフを見ていると安心できる部分がありました。何より遠藤さんは安定感のある演技が素晴らしい役者さんでした。

 

マクベスについて
丸山さんの「マクベス」主演が決まったときにツイッターで流れてきた概要が「普通の男が、徐々に狂っていき殺人までも厭わないようになり破滅するストーリー」といったようなものを読んだので私のマクベスに対する印象はそれに依拠するものだったのですが、私の見た丸山さんのマクベスはまた少し違った表情をしていました。
まず、マクベスは非常に優しく繊細な男だということが丁寧に表現されていました。
また、マクベス夫人やマクベスが特に多用する「男」という言葉。これはマクベスが女性らしい繊細さを持つからこそ強調される言葉です。
マクベスが最初に王を殺しても尚、その呵責によって魔物は姿を消しません。(魔物=後悔の念によって生まれる。よってマクベスの優しさの象徴とも取れる)しかし、「王を殺す」ことで王の座を手に入れたマクベスの人格は、確実に破滅へと向かっていったのでした。
マクベスは柔和な男でありながら「王の座」に固執したために、その為なら何も厭わなかった。しかし、その度に虚妄に襲われ、病んでいく。
魔物から受け取った注射を打った後が大きなターニングポイントとなり、マクベスの心は変化し、破滅へと向かうスピードが更に増していきます。
最後の戦闘のシーンのマクベスは完全に殺すことに迷いはない目をしていました。正常な精神のマクベスによる戦闘のシーンが冒頭にあることで、クライマックスのシーンの戦闘でのマクベスの異常さが引き立つ。殺陣の刀の振り方一つとっても、トドメのさし方をとっても、違う人格になったようでした。

 

これだけでも複雑なマクベスの心境の変化があることが分かると思うのですが、それを台詞一行ずつ表情を変えて見事に繊細に表現してみせた丸山隆平さんが素晴らしかったです。


鈴木裕美さんがキャストの皆さんに「疾走感のあるマクベスに」と言ったように、駆け抜けるようにストーリーが進んでいきます。ぼーっとしていると置いていかれます。これだけの舞台をこの公演期間中、ときに1日2回演じる役者の皆さんは本当に凄いです。

 


私が観劇したのが6/30と幕が開けて間もない頃でしたが、キャストの皆さんは、集中を切らすことなく休憩なし2時間30分の舞台を駆け抜けていきました。。これがもっと進化したマクベスというのも見てみたいです。なにより、狂気というオーラに包まれた丸山さんが舞台上で座長を務めていることがただただ素晴らしかったです。
千秋楽まで、無事に走り続けられるように祈っています。

 

 

追記:(自己解釈諸々)

・物語序盤マクベスに感情移入していたが徐々に客観的に見れたのはシェイクスピアが意図したものなのか?

→物語5幕は戦況を伝えるマクベスの出演しないシーンが多い。物語の終盤ではマクベスの心は決まっていたため、状況だけが刻々と変化する様子が伝えられる。これが一種の客観性を生んだのではないだろうか。(敢えて感情同化させないように構成している原作に沿ったかたちをとったのではないか)

 

マクベスと夫人のラブシーンは必要なのか?

→繊細なマクベス、野心のある夫人は女性的な面と男性的な面をそれぞれ逆転して持っている。しかし、夫人はマクベスに同情し夢遊病となる。マクベスもまた、夫人のために手を汚し、病気の夫人を気遣う。夫妻の愛がお互いを狂わせ、破滅させたという解釈も可能であるので夫妻の間の愛情を視覚的に表現する必要があったのでは? また、そのような夫妻なのに、夫人の死を「あれもいつかは死ななければならなかった」と淡々と告げるマクベスの異常さを際立たせることもできる。