深海魚

花びらに埋もれてこのまま 死んでもいいと思った

"やすば"の運命と永遠を信じたい


私の大好きなコンビがいる。関ジャニ∞のグループの中では身長が小さくて、でも「音楽」を表現しているときは思いっきり伸びやかに、グループの中で誰よりも輝くふたりだ。

彼らを、ひとは「やすば」と呼ぶ。

 


安田章大の"やす"と、渋谷すばるの"すば"が合わさって、やすば。

 


誰が最初に命名したのかは知らないけれど、これを最初に思いついた人は天才だと思う。

語感と響きといい、ひらがなの字面の収まりといい……ああ、なんて可愛いんだろう。

 


私はやすばが大好きで、これまで色んなことを勝手に語ってきたけれど、本人たちが発信したエピソードはふたりの思い出の全てではない。それに、彼らの関係性について、知っているかのように言葉にするけれど、本当のことなんて、なんにも知らない。

 

だけど、私は「やすば」を語ることをやめられない。「やすば」に惹かれてやまないのだ。

 


やすばのエピソードについてはGoogleを開いて検索したり、Twitterのキーワードで検索したりすれば沢山出てくるので、ここでは割愛する。

 


私がいま、この文章を書こうと思ったのは、ジャニーズウェブ「やすば」連載の最終回。すばるくんが安くんに宛てた言葉について考えたかったからだ。

 


運命共同体。どうせ死ぬまで一緒。」

 


未だにどう受け止めればいいのか戸惑ってしまうほど、熱烈な言葉。

"どうせ"という三文字に込められた意味は、何なのだろう。

すばるくんが安くんと別の道を歩むことを発表したときから、再びこの言葉の意図についてぼんやりと思うことが増えた。

 


"運命"という言葉について、ある本にはこう書かれていた。

 

「それは私にとって幸運であった」と人は言うが、「私の幸運」とはいわない。これに対して「私にとって運命であった」とも「私の運命」という言い方もする。これは偶然が自分の外的なものにとどまらず、自分の存在の根幹に関わっていると感じられるところに運命意識が生まれるのである。

 


運命は、幸せだけでなく不幸さえも、ひとの意思に関係なくもたらすもの。それは、自分の存在を位置付けるにあたり、根幹に関わってくるのだそうだ。

 

同じバンドを好きになって、一緒にライブに行って。すばるくんが書いた詩に、安くんが曲を書いて。一緒にギターを奏でて、歌を歌って。

音楽を誰よりも「共有」していたふたりは、お互いの存在を、自分の存在意義に重ねていたのだろうか。

そんなことは私には到底計り知れないけれど、「死ぬまで一緒」という言葉が意味するのは、やすばが物理的に近くにいることじゃなくて、すばるくんが音楽を奏でる限り、安くんが音楽を奏でる限り、ふたりの奥底には 同じものが流れ続けているということなのではないだろうか。

 


彼らの音楽面について、舞台『俺節』を経験した安くんが、音楽を突き詰めた先の「孤独」を理解したとき、関ジャニ∞のメインボーカルである、すばるくんが感じていた音楽の「孤独」の意味を知ったことをボク。で語ってくれた。

芸術の創造において、自分と対話しなければ自己表現は生まれない。それは自分の孤独と向き合う、途轍もない作業だ。言葉にすれば簡単なようだけれど、なかなか実現できないことだ。

演歌歌手という難しい役柄を『俺節』で経験した安くんは、関ジャニ∞でたったひとり、すばるくんの音楽の孤独について触れられた人だったのかもしれない。

 


あわせて安くんは、すばるくんについて


赤は

いつも自分たちの体の中に絶えず流れてるよ

血は赤だ

いつも流れてる

流れ続けてる


と、ジャニーズウェブ連載「関ジャニ戦隊∞レンジャー」内で語っていた。

 


身体を巡る血液と、すばるくんを重ねた安くん。そして、それは永遠に流れているものだ、と。

血は生命の維持に必要不可欠なもの。そして、循環し続けるもの。

 


この文章の主語は「自分"たち"」だから、自分以外にもメンバーやファンにも当てはまる言葉ではある。けれど、すばるくんのメンバーカラーである赤色を血液に見立てた安くんの感覚が、やすばをやすばたらしめる感覚そのもののように感じる。

 


かつてのふたりは、色んなものを共有したがっていたかのように見えていた。物理的にも、精神的にも。友情とも依存ともいえない、そんな関係を一時は手放した。そしてふたりが別々の道を歩むことを決めた去年の春。

ふたりが同じように大切にする音楽のなかに互いをどこかで見いだすのであれば、やすばはきっと永遠なのだろう。

 

 

彼らが互いに宛てた「運命」と「永遠」は、ただのファンが切り取っただけの言葉の端くれにしか過ぎないのかもしれない。だけど、私はやすばの運命も永遠も信じたいのだ。