深海魚

花びらに埋もれてこのまま 死んでもいいと思った

舞台「俺節」が見せてくれた世界

俺節千穐楽お疲れ様でした。また、彼らに会えることを祈ってレポでも感想文でもない、文章を書きました。

 

俺節が幕を開けると、「みれん横丁」という異界の地に、私たちは誘われる。そこは、世間で言えば落ちぶれた人々が行き着く先。当たり屋さん、覗き魔さん、放火魔さん、皇族のふりをした結婚詐欺師…と、個性というにはパンチが強すぎる住人がいる。彼らは、世間様からすれば底辺の人間たちだけれど、同じレベルの人たちと暮らす、みれん横丁の中では生き生きと普通に生活をしている。お金はないし、汚いけれど、何だか楽しそう。そんな空間だ。
コージに裏切られたオキナワに、みれん横丁の住人が放つ「オキナワ、お前は横丁の中じゃあ、しっかりものだったけれど、外に出てみたら俺たちと一緒じゃねえか」という言葉がある。みれん横丁とは世の中から少し外れた彼らの、ユートピアだったのだ。コージと共にみれん横丁に連れて行ってもらった私たちは、物語が終わる頃には、まるで横丁の住人のひとりとなったような感覚に陥る。また横丁へ行きたい、そんな気持ちになるのだ。

 

この作品の一つの大きなテーマといえば、「演歌」であろう。私も観劇以前は「演歌」を聴きに行くのだ、という心づもりをしていた。でも予習するにも、演歌を自ら聴いたことなんてほとんどなくて、どうすればいいのかすら分からなかった。

 

しかし、物語の中で、それは演歌ではなく”コージの歌”として心に響いてきた。
コージが言葉にできない、想いがつっかえて、溢れそうになったときに初めて発される歌、それがこの作品の演歌なのだ。だからコージの歌は、感情の昂りを抑えることを知らない。勢いのままに、観衆に届く。それでいて、圧倒的な声量と歌唱力で、物語を引っ掻き回していくのだ。歌で〈敵を倒す〉なんて、アニメのようなご都合主義だけど、コージの歌には、それを説得させる力があった。


物語最後に歌われる「俺節」を聴くとき、感情移入するのではなく、悲しいわけでもなく、何故か涙がこぼれた。雨に打たれながら叫び歌うコージのエネルギーが、痛いくらいに伝わってきたからなのだと、私は思う。

 

 

「踏んづけられるのはいつものことだべ。だから行く道いくしかねぇで」不器用すぎるコージの姿が、時折安田くん本人に重なって泣けた。それは敗者とか勝者とか関係なく、ひたすら不器用に、心が折れる、でも、前にもがく姿。痛いくらいに真っ直ぐなコージだから、オキナワもテレサも北野さんも師匠も、横丁の人たちも、全員がコージに手を差し伸べる。個人的に、原作のコージはもっと無骨な印象を受けた。しかし、安田くんの演じるコージは、不器用ながらもみんなが思わず構ってしまうのが分かる、愛すべきキャラクターだった。

 

 

この作品が、今後の安田章大の血となり肉となって行くことは間違いないであろう。安田くんは、まさに命を削るように、魂で届けるように、コージを演じていた。そこに存在していたのは3次元の俺節の世界に生きる海驢耕治。だから、演じるという言葉は最早的確ではないのかもしれない。

俺節を観劇した直後、私と友人の口から思わず零れた言葉は「生きよう」だった。俺節が伝えてくれたもの、それは現実を生きる強さ。物語のメッセージ性を超越した何かが、確かにそこに存在した。
舞台「俺節」の音が、日々の生活のあれそれで歯をくいしばってるその時に思い出すことで、俺節は心の中で生き続けるし、音が歌となって響くのだろう。

 

いつかまた、「俺節」のみれん横丁のみんなに会える日まで。へば!