深海魚

花びらに埋もれてこのまま 死んでもいいと思った

アイドルと永遠哲学ー「担当」の定義について


アイドルを応援していると、ただ「好き」という感情だけでは成り行かない問題がある。

アイドルを人間として消費するファンという立場について考えたり、アイドルの結婚から彼らの人生について見つめてみたり。

今回は「担当」という定義について考えていきたい。

 

「担当」ー それは、最もアイドルファンのそれぞれの"哲学"が垣間見える瞬間。

新しい担当がうまれたときの"沼落ちブログ"は、勢いのある熱量で綴られた「愛」の文章だ。一方で"担降りブログ"は、それぞれが担当に向き合い、担当の定義について考えつくした文章。

私は、これらの文章が大好きだ。ファン各々のアイドルに対する向き合い方を知れるからである。ひたすらに愛から生み出された文章はエネルギーに満ち溢れている。決して論理的ではないかもしれない、だけど「好き」の熱量は、人の心をうつ。

 


担当というのは、アイドル文化のなかで一般的ではなく、ジャニーズ特有の単語だと感じている。

同じような意味を持つ言葉のなかで、推しと担当では受ける印象が違う。

 


そのままの言葉の意味を辞書で調べると、

担当→になう、受け持つ

推し→すすめる

といった意味合いとなる。

 


「推し」は他者に自分の好きな人をすすめるようなニュアンス、「担当」は、他者は介在せず どちらかというと自己のなかで完結するような印象を受ける。

 


ただ、上記の解釈も、辞書的な言葉上での意味合いであるので、実際にこの定義を各々に落としこめるのかといえば一概にそうではない。

自己の中で完結する「担当」だからこそ、「推し」よりも複雑に各々の心の内に「担当」の定義・あり方が存在するように思う。

 


だから、一人の人を担当にするのも、複数人いるのも間違いではない。「担当」か「そうでないか」の違いというのは、結局、自分の中にある担当の定義の内で許容できるのか?という問題なんじゃないだろうか。


もう一つの視点を挙げるとするならば、経済的な問題だ。

アイドルを応援する、ということは経済活動と直結する。ここで言いたいのは、お金をつかわないで応援する在宅ファンを非難するわけではないこと。応援の仕方は様々あると私も思う。

ただ、アイドル活動というものはビジネスで、彼らを持続可能な存在として支援する形が《ファンクラブに入る、CD DVDを買う、コンサートにいく、グッズを買う》といった消費者としての行為なのは事実である。最近はYouTubeの再生回数をあげる、ということも加わったけれども、YouTubeも結局のところ、広告ビジネスなのである。

 


アイドルは経済活動と直結しているからこそ起こるのが、時間とお金の問題なのかな、と思う。

時間とお金は有限で、自分の中で優先順位をつけなければならない。その中で、自分のなかの担当制度を見つめ直す時間が必然的に必要となる。

 

私は、最近 特定のアイドルを担当と呼ぶことに抵抗が出てきた。

好きなアイドルが増えるにあたり、「担当」の言葉に含まれる「受け持つ」という意味合いが自分のなかで 重く感じるようになってきたからだ。

安くんも、つよしさんも、辰巳くんも、内くんも、佐野くんも、阿部ちゃんも、みんな素敵でかっこよくて最高のアイドルで、彼らの"いま"の姿を目に焼き付けておきたい人たちだ。好きなアイドルを、私は簡単に好きじゃなくなることなんてできない。だから、今とこれからを見ていたい人が、気がつくと増えていた。

愛は完全に等分することはできない。10年以上追いかけている人と、最近気になる人の間では歴史も、知識の量も違う。それはもう仕方がない。

アイドルはエンターテイメントだから、担いすぎて自分が重たくなってしんどくなってしまうのなら本末転倒だ。

だから、気ままに、私は私の「好き」を貫いていきたいなと考えている。

 


何かの縁あって、この文章を読んでくれているあなたも、誰かの決めた担当の定義に振り回されるのではなく、自分のなかで納得のいくように応援すればいい。なにかに押しつけられる必要も、誰かのつくった定義に苦しむ必要もない。

「担当」の定義ーこの答えを持っているのは私でもなく、友達でもなく、担当のあの子でもなく、あなたなのだ。

「担当」という制度は、ジャニーズアイドルファンにとって永遠の哲学だ。