私の人生のなかで「これに出逢わなければ人生違っていただろうな」というものがある。
自粛つづきの今だからこそ、これまでを振り返りながら、人生を変えてくれた小説、舞台作品、言葉についてお話したいと思う。
もし、興味のある方がいらっしゃいましたら、是非お付き合いください。
目次
1.小説 ミヒャエル・エンデ「はてしない物語」
私は元々、読書が好きだった訳ではなかった。小学校の図書館にある児童書は なんだか味気なくて、漫画もあまり好きではなかった。
小学校三年生のとき、当時の副担任の先生に勧められて購入した本がミヒャエル・エンデ「はてしない物語」だった。
書店に行って、お母さんに単行本を買ってもらった。584ページもあるこの本は、辞書みたいに重たかった。
当時の年齢からすれば、本にかける金額としては高価なものだったけれど、そういえば参考書と読書のための本ならば、私の両親はいつでも買ってくれたなぁ。いまになってその有り難さが染みる。
この本の装丁の表紙は、あかがね色のベロアのような生地で、尾を噛んだ蛇の文様があしらわれている。そう、この物語に登場する「はてしない物語」そのもののように。
主人公のバスチアンが小説の中に入り込んで、ファンタジーの世界を旅するみたいに、この大作を読んでいる自分は 旅をしているような心地がした。そして、ファンタジーであると同時に、旅の終焉に主人公に待ち構える「現実」に向き合えるように夢物語だけで終わらないところが、何度繰り返し読んでも飽きない理由だった。
子どもでも読みやすいのに、子どもらしく簡単ではない物語。「時間を忘れて本に没頭する」という行為の楽しみを教えてくれたのは、この本だった。
2.舞台作品 「ザ・オダサク」
音楽劇「ザ・オダサク」は2013年と2014年に内博貴主演舞台として、上演された。
大阪で生まれ、33歳という若さでこの世を去った 作家 織田作之助の半生を描いた作品。
私がこの作品に出逢ったのは、高校二年生の春。ちょうど、進路選択をしようかといった時期。好きなものはあるにしても、どの学部に進学するべきなのか、自分でも定まっていない頃でした。
この物語の主人公 オダサクは自由奔放な男だった。貧しいのに突然勤めていた新聞社を辞めて奥さんを困らせてしまうし、その割にいつでも自分に自信があるような振る舞いをしている。全然、相容れないし、人間としてはダメな部類の人だった。
けれど、内くんが演じるオダサクは、苦悩しながらも執筆活動を最後の最後まで諦めない、とても人間らしく魅力的な人だとも感じた。
この舞台を観劇してから、私は織田作之助さんの本をはじめて手に取った。
そのなかで 劇中にも登場した「可能性の文学」を読んだときの衝撃を、今でも忘れられない。
バー・ルパンに集まった、太宰治と坂口安吾と織田作之助の三人。舞台で繰り広げられたあのシーンが、紙面に広がっていた。
高校生の私にとって、「可能性の文学」の内容の8割も理解は出来なかった。だけど、舞台で観たのと同じ部分だけは、中身が理解できた。
オダサクの目指す文学理論の本質は、何も分からなかったけれど、舞台で観た景色が文章の中に広がっていることに、感動を覚えた。
そして、オダサクの目指した「可能性の文学」は何処にあるのだろうか。果たして彼は"可能性の文学"を実現させることができて、その短い人生を閉じたのだろうか。
その答えが知りたくて、かつてオダサクが学んだのと同じ京都という街にある大学に進学し、日本文学を専攻し、オダサクが影響を受けた作家・スタンダールの小説が読めるようにと第二外国語はフランス語を専攻し、卒論を織田作之助の小説で提出した。
同時期に活躍した、太宰や安吾と比較して、先行研究が比較的少ない織田作之助の研究は、とてもやりがいがあった。その反面、検証作業をすると 時代や場所が不適合なところも多く、彼の「適当さ」に苦労することもしばしばあった。ただ一つ言えるのは、ひたすらにひとつの作品に向き合って研究をした日々は、私にとってかけがえのない時間だった。
私が高校生のあの時期に、あの舞台に出逢わなければ、就職に強そうだから法学部にしようかな なんて、安直に考えた選択のまま進学しようとしていたのかもしれない。
大学在学の4年間 こんなにも夢中になった、文学研究を知らないままだったかもしれない。
そう思うと、内くんがきっかけを与えてくれたことで、今の自分がいるのだと思います。
3.言葉 堂本剛さんの「人生」と「依存」について
人生は一度きりで自分の人生だから、僕みたいなものに依存するのはやめて、「僕と同じ時代を生きている」ということに専念してください。
これは、堂本剛さんが、いつかの平安神宮LIVEや小喜利で語っていた言葉。
私がアイドルを応援する中で、大きな指針となっている。
私は私の人生を自由に生きているなかで、偶然 同じ時代に生きているアイドルを好きになった。
アイドルを応援するなかで、義務感に苛まれたり「依存」したりして、自分の本来したいことの身動きが取れなくなってしまうのであれば、意味がない。
つよしさんはこの言葉をファンに向けて語ってくれたけれど、アイドルの人生も、彼ら彼女ら自身のもので、第三者が口出しをすることはできないということ。アイドルであろうと、ファンであろうと、同じひとりの人間で、人生選択の自由は平等に存在するということ。
それも、決して忘れてはならないことなのだ。
アイドルを追いかけるなかで、ときに「応援」と「義務」のバランスを見失うこともある。また、応援するという行為が、Twitterやブログにおけるアイデンティティとなりつつあると実感する瞬間もある。それは「私らしさ」がアイドルを応援するという行為に依存していないか、という自問でもある。
もしこの言葉に出逢わなければ、より多くの現場に行って、より多くのグッズを購入する人と自分を比較しては身の丈に合わない行動をとっていた未来もあったかもしれない。
私にとって、この言葉を、好きなアイドルから直接聞けたこと。アイドル自身が私たちの人生について言及してくれた意味を噛みしめながら、今日も健全に彼らを応援したい。
以上、「私の人生を変えてくれた」作品や言葉を紹介しました。
アイドルを応援するということに依存しない、と語ったばかりだけど、こうやって見ると、良くも悪くもアイドルに人生選択を変えられてしまうほどの影響を受けているのも、また事実なのかもしれない。