深海魚

花びらに埋もれてこのまま 死んでもいいと思った

ジャニヲタ、ルッキズムについて考えてみる

 

 

ルッキズム」=Lookism

外見により人を評価、判断すること。身体的に魅力があるほうが優位に働くこと。また、魅力がない人にとって不利に働くこと。

 


ルッキズムは、様々な観点の差別・偏見とも紐づいている。

人種や、肌の色による差別。健常者と見た目にあらわれる障がい者の間に横たわる差別。年齢に伴う差別。

単に「顔がいい」「ブサイク」ではなく、無意識のうちに、刷り込まれている見た目による先入観の問題である。

わたしの考えでは至らない箇所しか見つからないような、このブログでは言及しきれないくらい、あまりに広く深い問題であることを先述しておく。

 

 


わたしは、ジャニーズ事務所に所属するアイドルが好きだ。

推しの好きなところを挙げるとキリがないけれど、大前提として「顔が好き」だ。

だって、推しの顔がいいから、グッズの写真は何枚あっても困らない。同じ髪型で同じ衣装のカットでも、角度が違えば買いたくなる。顔写真の載った大きな団扇だって、推しの顔が印刷されていないと、なんの価値もない。ライブには、少しでも推しの顔を鮮明に見ようと、奮発して購入した数万円の双眼鏡を持っていく。

 

 

アイドルは、外見を売り物にしている職業であると思う。

パフォーマンスの素晴らしさ、歌のうまさ、トーク力、演技力。その他にもアイドルを好きになる要素は無数にあるけれど、「アイドル」は大前提として外見が優位に働いて、人の好意をあつめて、お金を動かしている。

 


外見がよくないと、そもそもジャニーズにはなれない。

たとえジャニーズとして活躍したいという意志があっても、オーディションで振り落とされ、活躍できる機会を損失する、と考えるとアイドルというのはルッキズム的観点からいうと、平等性を欠き、淘汰されるべき存在なのかもしれない。

また、人びとがアイドルに熱狂すると「可愛い/かっこいい」は、正義なのだという考えを、世間に植え付ける原動力になるのかもしれない。

 


ただ、わたしはアイドルを非難したい訳ではない。

キラキラとした夢を与えてくれる彼らを悪の存在にはしたくない。

 

 

いま、アイドルとして活躍するアイドル自身が悪なのではなくて、「顔のよさ」に軽率にお金を払ってしまう、わたしが悪いのかな……。結局のところ。

自分で書き連ねておきながら、もう何が正解なのか分からなくなってきた。

でも、こうやって自分自身の「当たり前」として疑わなかった価値観を、問い直すことが、いちばん大切なのだと信じている。

 


身近な話でいうと、私の担当の安田章大さんは、2年前に患った髄膜腫の後遺症で、光が過敏になっている。その影響により、ステージの光はおろか、日常の太陽光でさえも、サングラスで守らないといけない。サングラスは取り外しのできるアクセサリーだ。けれど、彼にとってサングラスは、健康維持の為には簡単に取り外すことができない身体の一部のような存在である。

その色つきのサングラスをかけることで、事情を知らない一般の人たちに「態度が悪い」などと評価されているツイートを見かけたことがある。

生まれながらの見た目の問題ではないけれど、「見た目だけで第三者に性格を判断される」ということはこういうことか、と そのとき感じた。

このように、自分の大切な人が、偏見によって判断される世界は、単純に心苦しいなと思う。


生まれもった、簡単には変えることのできない見た目で判断され、優劣をつけられることは決して肯定できない。

 


わたしは美しいものが大好きだし、美しいものが正義だと思っている。

「美しい」という、自分の判断には 他人の価値観は介在しなくて、それが絶対的であるからだ。

美的感覚について過去にこのようにツイートをした。

 

 

 


ただ、その価値観が適応されるのは「自分自身」においてのみである、ということを大前提にしておかねばならない。

美しいという価値観は、自分自身のなかで絶対的で、分かりやすい。だけど、他人においてその価値観が適応されるわけではないのだ。

 

自分のなかで、絶対的な感覚を、他人に否定されるというのは、中々受け入れがたいことだと思う。

なんなら、自分の価値観を補強するために共感してほしい。

だけど、美的感覚というのは、主観が強い価値観であるからこそ、他人に強制してはいけないのだ。

 

 

 


肌の色が白くて、目はぱっちり二重で、太っているよりも細いほうがきれい。

 


違うよ!って思う人もいるかもしれないけれど、今の世の中のステレオタイプとして、横たわる美的感覚はこのようなものだと考える。

でも、それは誰が決めた価値観なのだろう。

幼いころから、本やドラマやテレビで刷り込まれた価値観ではないのか?


そして、自分の「美しさ」の定義によって、誰かを批判してはいないか?

自分の「美しさ」の定義によって、自分自身を苦しめてはいないか?


ときどき、立ち止まって考えていたい。

こういうことを考える必要がある時代に、わたしは生きている、と思う。

 

 

20代のいち社会人女性として、わたし自身のことを考えたとき、やっぱり痩せたほうがいいなと思って食事制限をしたり、少しでも見た目をよくしようとデパートのお高いコスメに手を出したりする。

でもそれは、誰かに強制された訳じゃない。

少しでも誰かから見られるときに「可愛くありたい」わたしは、見た目の価値観に縛られているのかもしれない。

でも、自分が綺麗になることで、少しでも自分を肯定できるのは事実だ。これは楽しみを見出す術でもあるからだ。

 


わたしは、これからも相変わらず推しの「顔がいい」と呟くだろうし、顔がいい推しのことが大好きなままだろう。

そして、自分自身も誰かの決めた「美しさ」の価値観に苦しみながらも、着飾ることを楽しんでいくだろう。

 


答えはまだ当分見つかりそうにはないけれど、差別の根本的な部分は、"誰かを傷つけない"ということだと思う。

差別として行動に出さないにしても、見た目による先入観で人を判断している場面は、いままでもあったし、これからもそうしてしまうだろう。

偏見による、自分自身の無意識の考えによる発言や行動が、誰かを傷つける武器になってはいないだろうか。見下すことになっていないだろうか。そういうことを考慮できる人にわたしはなりたい。

美しさは、あくまでも"いち個人の価値観"であることを大前提に、誰かを美醜によって判断したり批判したりするような人間にならないように。

その人の本質を見ずに、見た目だけで誰かを勝手にカテゴライズして 線引きをする人間にならないように。


アイドルが大好きだからこそ、美しい彼らが大好きだからこそ。アイドルに向ける「好き」のパワーが誰かを傷つける暴力にならないように、わたしは願っている。