安田章大さん主演「リボルバー~誰が【ゴッホ】を撃ち抜いたんだ?~」を観劇してきた。
原田マハさん原作、今回の舞台のために再度内容を書き下ろし直した演劇。
そこには、フィンセント・ファン・ゴッホの孤独と目に焼き付いて離れない「ひまわり」の風景、そしてフィンセントを取り巻く人々の悲哀があった。
「ひまわり」は太陽を目一杯あびて、黄色が眩しい、明るい花の印象だった。
しかし、この作品に登場する舞台装置としての「ひまわり」は、少し萎びている花もあったり、バラバラの方角を向いていたり。
様々な黄色のグラデーションと、花のひとつひとつに息づく生命。それはフィンセントが描いた「ひまわり」そのものだった。
「舞台」という閉じられた(=ホールという場の物理的効果・日常とは切り離された)空間において、時間は、何倍速もの速さで駆け抜けることも、止めることも、巻き戻すこともできる。
「絵画」は、一瞬の風景を、時代を越えて永遠に閉じ込めることができる。そして、作者の目を通して見えた"世界"を、そのままに視覚情報として伝えることができる。
舞台のなかで、画家の生涯を描くということは、日常で流れる時間軸とは隔絶された、それでいてフィンセントが生きた世界を、ぎゅっと閉じ込めたような、不思議な心地がした。
史実に忠実なものが素晴らしい、って訳じゃなくて 「何を・どのように伝えるために、いかに脚色し物語として再構築させるか?」ということを再考させられるような舞台だった
— あーやん (@astre_iris818) 2021年8月12日
終演後に、こうツイートしたように 今回の「リボルバー」という作品は、フィンセントの人生を、ゴーギャンやテオといった、彼を取り巻く人々の人生とともに、物語として再構築しているものである。
勿論フィクションなんだけれど、そこには史実(=ノンフィクション)の部分も含まれる。
それを、原田マハさんが脚色し、行定監督が再構築して、安田章大さんの身体を通って、物語として届けられた。
今回の作品で描かれるフィンセントは、突然手をつけられないほどに怒り出す激情型。時に、自分で自分を抑えきれないことを自覚して深い孤独の谷底へと落ちていってしまう人。
誰かに理解されたくて、でも世間はまったく理解してくれなくて。
ゴーギャンは「仲間」のようでいて、関わり合えば関わり合うほどに、ぶつかり合ってしまって。
弟のテオに依存しながらも、最期には その依存を自覚して、弟のためを思って自殺に至ったことも匂わせるかのような、心の優しさも持ち合わせた、そんな人物。
世の中では、彼のことを「フィンセント」と呼ぶよりも舞台のサブタイトルのようにファミリーネームの「ゴッホ」として呼称されることが多いだろう。けれど、この物語に息づいていたのは確かに、フィンセントの生命だった。
CDCのオークションの場面にあったように、美術品の価値は、美的価値だけではなく 美術品が持つ「物語」が決める。
小説版では、冴の元にやってきたリボルバーは、オークションにかけられずに その物語を閉じる。
しかしながら、本舞台では、該当のリボルバーのオークションシーンで幕を閉じる。
まるで、"本作品の主題となる「リボルバー」。この舞台で提示したリボルバーが持つ物語に、あなたは幾らの価値をつけますか?" と、問われるかのように。
きっと、わたしはいつか何処かで思い出すだろう。
フィンセントの孤独の叫びを。
枯れかけたひまわりの眩さを。
安田章大さんが駆け抜けた、フィンセント・ファン・ゴッホの生命の輝きを。