深海魚

花びらに埋もれてこのまま 死んでもいいと思った

関ジャニ∞と、わたし

 

  • ファンになる前までのお話(前日譚)


あれは確か小学1年生くらいのころ、友達の家に遊びに行ったとき、友達のお姉ちゃんが好きだったアイドルが内博貴さんだった。V.WESTの動画を見せてもらって、写真を見せてもらって、この世の中にはこんな綺麗な人がいるんだな、って思った記憶がある。これがわたしにとって、はじめての「アイドル」との出会いでもあった。

 

 

  • 2007年


小学5年生のころ、クラスメイトはKAT-TUNや嵐の話題が多かったと記憶している。

そんなとき、イッツマイソウルの宣伝でうたばんに出ている関ジャニ∞を見て、この人たちのこと、好きかも?って思った。関ジャニ∞との出会いだった。

クリスマスプレゼントには、その直前に発売された「47」をお願いした。

そして、「47」のDVDをみると、金髪のかわいい男の子が、ギターを抱えて、とびきりに甘い歌声で歌っていた。安田章大さんの、「わたし鏡」だった。

そして、コントあり、バンドありの関ジャニ∞に、すっかり魅了されてしまった。

「そういえば関ジャニ∞って8人だったんだな、えっ、内くん居たんだ抜けちゃったんだ…」って認識したのもこの頃。でもいつか絶対8人に戻るんだって、信じてやまなかった。

 

 

  • 2008年〜2009年


なんといっても、当時は嵐の勢いがすさまじかった。小中学生のクラスメイトは男女問わずいつも嵐の話をしていた記憶がある。

47のセールスが年間1位を獲得したのに、そこまで注目を浴びれていない関ジャニ∞の不憫さに切なさを覚えつつ、わたしは彼らを応援しよう!と強く誓ったことを覚えている。ただ、大阪に出るのも1時間はかかってしまう田舎ぐらしの小中学生には、CDや雑誌を買うことはできても、どうやってコンサートに行くのか?というのはあまり情報が得られなかった。いつかコンサートに行ってみたいな、と思いながら特典映像を擦り切れるほど見る毎日だった。

 

 

  • 2010年

 


ワクワクするようなホームページ、発売されるシングルから繋がっていく8UPPERSプロジェクトに心ときめかせた1年。あまりにもかっこよかったので、友人たちに8UPPERSの DVDを貸しまくって、当時同じ吹奏楽部だった同級生3人が関ジャニ∞の沼にはまってくれた。当時はとにかく布教活動しまくってた。その甲斐もあり、同じ話題で盛り上がれる友ができ、より関ジャニ∞を応援することが楽しくなっていた。(いまだにそのうちの2人とは一緒にコンサートにも行く仲)

YOU&Jに入会してはじめてコンサートに応募したのもこの年。京セラドームは落選してしまったけれど、グッズを買いに並びに行った。(このときはチケットを譲ってもらうとか、そういうことも知らなかった)

 

 

  • 2011年


毎日の部活に高校受験の勉強に、忙しいながらも、関ジャニ∞はわたしの青春の一部だった。

はじめてジャニーズのライブに行ったのはこの年の内博貴 with Question?のライブで、自分がはじめて認識したアイドルが、こんなキラキラしててかっこよくてどうしようか、と思った。

年末には、念願のはじめての関ジャニ∞のコンサートにも行った。初5大ドームコンサート。

当時の自分には京セラドームに行くのだけでもかなりの長旅だった。

はじめて聴く関ジャニ∞の生の歌声、すばるくんの声に感動して泣いたことを覚えている。

 

  • 2012年-2014年

 

高校生活の幕開けとともに迎えた関ジャニ∞の8周年、∞祭はとにかくたくさん並んだし一日中歩き回ったけれど、しんどさより楽しさの方がずっとずっと上回ってた。(元気だったな、当時……)

ブースに並んでいるときの、中継映像、めっちゃかわいかったな。会場の空気感含め、円盤には残せない部分の体験的な思い出がすごく残っている。

当選してた長居スタジアムの日は雨で中止、ひどく落ち込んだことを記憶している。

晦日に京セラドームへ行った。11時開演で、その後にはじめて紅白に出場する7人を見送った。


所属していた吹奏楽部は、朝練は毎日あるし、夕方も許される限り下校時間を延長してまで練習して、夏休み中も練習ホールに篭って練習するような部活だったけれど、疲れて家に帰ってから見る関ジャニ∞のバラエティーや、寝る前に聴くラジオが毎日の活力だった。


2014年に、オモイダマが発売されて、連動企画で歌詞を高校生に募集したり、演奏する吹奏楽部生を募集したりしていて、そのどれもに応募できたのが楽しかった。(残念ながら選ばれませんでしたが…)

十祭の日も暑かったけれど、ヨコヒナtornを超える声援は、未だに聴いていない。

青春ど真ん中のところにも、関ジャニ∞がいたことが強く印象に残っている。

 

 

  • 2015年-2018年


大学に入学して、実家を出たりバイトをはじめたりして、はじめて遠征をしだしたのもこのころ。

初遠征はリサイタルで訪れた盛岡で、関西からはあまりにも遠かったけれど、ご飯も美味しくて景色も良くて、素敵な街だった。元気コンのLOVE & KINGの安くんのダンスがとにかく良くて、可能な限り入ったツアーだった。

新潟のリサイタルでは、真後ろの席が幼稚園のころの同級生だったという10年以上ぶりの再開ミラクルが起きたし、エイタメコンでは大雪の札幌から飛行機欠航で帰宅難民になりかけた。なんとか当日深夜便に振り替えてもらったものの、在来線が終わっており、帰宅難民になりかけたところを飛行機で隣だったエイターさんに送り届けてもらい、無事に帰還できました。こんな感じで、遠征にもいろんな事件(!?)がありました。

ジャムツアーも、思い返してみても、とにかく「楽しかった」ことしか覚えていない。

ジャニ勉の番協にも何回か行ったな。とにかく行けるもの・楽しめるものに貪欲だった。

わたしの大学4年間は、研究とバイトと海外旅行とアイドルでほとんど構成されていたと思う。

夜行バスに乗り込んで、カプセルホテルに泊まってまた夜行バスで戻ってくるような遠征をたくさんしたけれど、疲れるよりも、楽しいことしかなかった。


就活真っ最中の春に、すばるくん脱退の一報があった。平常心ではとてもいられず、次の日の面接がズタボロだったのもいまでは笑い話だ。あの春は、正直とても苦しかったけれど、それでも関ジャニ∞を応援することをやめようとは思わなかった。

6人体制で始まったGR8ESTツアーは、安くんの身体が万全ではなく、正直なところ満身創痍だったのが見てとれて、毎日苦しかった。名古屋公演で関ジャニ∞とエイターみんなで号泣したあの日も、忘れられない。

それでも関ジャニ∞は一歩先にいて、いつでも前を見つめていて、台湾という場所まで連れて行ってくれた。オフィシャルツアーに申込むか二の足を踏んでいたわたしに、二日間のチケットを代行して台南から届けにきてくれたKinKiの剛担の友人に大感謝。そして、人生でいちばん並んだといってもいい物販、5時間ほど並んだかな?そのときに知り合った台湾エイターさんが、その後も晩御飯や観光をご一緒してくれて、その方とは未だに台湾に行くたびに連絡をとってご飯にいく仲だ。「見たことのない景色まで連れて行ってくれた」関ジャニ∞との、本当に楽しかった思い出がたくさん残っている。

 

 

  • 2019年-2021年


わたしは社会人になり、忙しく過ごすなかでも関ジャニ∞の音楽やエンタメはいつでも心の支えだった。十五祭では、名古屋公演に参加して夜行バスで家まで帰ってきた直後に、どうしても1公演増やすとしたら今日しかない、と思い立ってそのまま家でシャワーを浴びてから特急電車に乗り込んでもう一回名古屋公演に入ったけれど、後悔はしていない。

亮ちゃんがエイトを抜けたときは、怒涛のように何もかもが過ぎていったので、正直なところ、感情を噛み砕いたり感傷的になる暇もなかったな。

十五祭のオーラスに亮ちゃんが内くんを呼んでくれて、それを内くんがブログで言及して、内くんのライブではピンクのペンライトの海で大阪ロマネスクが歌われて。生きてたらこんなこともあるんだなっていう瞬間も訪れた。


コロナ禍が訪れ、ステイホームなので家からも出られず、もちろんコンサートにも行けないような日々でも、関ジャニ∞のエンターテイメントはいつでも「光」だった。新曲の歌詞を募集したり、新たな映像コンテンツを企画したり、いつでも前を向いている関ジャニ∞に勇気づけられる瞬間がたくさんあった。


久々の関ジャニ∞、8BEATで久々の札幌遠征ができたのも本当に楽しかったし、やっぱり何回みても関ジャニ∞のエンターテイメントは何も考えずに笑顔になれるし、勇気づけられるし、生きてることを実感して泣かせられてしまうと思った。

 

 

  • 2022年-2023年


会社内で部署異動があり、大阪から東京に引っ越してきた。「何が変わった」というものは特段なかったけれど、Tokyoholicは一層身に染みるような思いがした。

18祭のスタジアム公演とドーム公演、ふたたび5人で大きな舞台に立ったことを誇らしく思うと同時に、気がつけば「5人」ということを意識すらもしていない自分に気がついた。抜けているメンバーの思い出よりも、いま目の前にいる関ジャニ∞が、関ジャニ∞そのもので、ふつうに受け入れられている自分がいた。

人数がかわっても、関ジャニ∞の本質は変わることなく、わたしの背中をいつも押してくれている。


事務所のさまざまな報道があり、それについて個人的な意見でいうと、わたしは事務所の屋号は変えるべきと思っていたので、屋号が変わることについては受け入れられたし、関ジャニ∞グループ名を変える、という一報がなされたときも「そうだよな」と思った。そうだよな、とは思ったけれど、それ以上にはあまりも実感がないので何も考えられなかったと思う。名前が変わっても本質は変わることがないし、という信頼もあったと思う。


わたしにとっても、わたしの人生を見つめ直す一年で、これからの自分の経験値を上げるために、一年間フランスでワーホリに行くことを決心した。

ちょうどその後に、事務所の報道が重なり、好きなアイドルたちもまた、自分のいく先を見つめ直している姿を見ていた。

自分の人生に責任をとれるのは自分しかいないけれど、アイドルはそれ以上にいろんな人の思いを背負おうとしてくれている。それを当たり前に享受するだけではいけないな、と思う昨今だ。

 

 

  • 2024年2月3日

 

いよいよ、明日になると関ジャニ∞はいまあるグループではなくて「旧称」になってしまうらしい。ここ数日、なんだか急に、寂しくなってきた。関ジャニ∞というグループ名とともに、歩んできた時間があまりにも長すぎるから。

8人との思い出のなかに、関ジャニ∞というグループ名が刻まれていたから。

名前が変わったからといって、彼らのエンターテイメントが変わってしまうわけではない、ということも理解はしている。

だけど、やっぱり寂しいものは寂しい。


きっと、もう5人はわたしたちの一歩先で、新しいことを考えていて、わたしたちが笑顔になるためのことを実現しようとしてくれている。

だから「関ジャニ∞」にとびきりの感謝を伝えたい。ありがとう。そして、これからもよろしくね と。

新しい関ジャニ∞の進む道が、どうか光で満ち溢れますように。

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今年は現場がない期間が長かったので、例年に比べて新しく服を調達したり、コスメを勢いで購入したり、ということは少なかったのかなぁと思います。

 

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