私の趣味嗜好が全開の、文学×ジャニーズシリーズ。
前回の関ジャニ∞に引き続き、今回はKinKi Kidsのイメージを私の好きな小説から選んでいきたい。
(前回の記事はこちらから!)
ルールは前回と同様。
②小説、随筆、詩など形式は問わない。
早速、KinKi Kidsおふたりのイメージから小説を選んでいきます。
坂口安吾「私は海を抱きしめてゐたい」
私はいつも神様の国へ行かうとしながら地獄の門を潜つてしまふ人間だ。ともかく私は始めから地獄の門をめざして出掛ける時でも、神様の国へ行かうといふことを忘れたことのない甘つたるい人間だつた。
ただ冷めたい、美しい、虚しいものを抱きしめてゐることは、肉慾の不満は別に、せつない悲しさがあるのであつた。女の虚しい肉体は、不満であつても、不思議に、むしろ、清潔を覚えた。私は私のみだらな魂がそれによつて静かに許されてゐるやうな幼いなつかしさを覚えることができた。
私は始めから不幸や苦しみを探すのだ。もう、幸福などは希はない。幸福などといふものは、人の心を真実なぐさめてくれるものではないからである。かりそめにも幸福にならうなどと思つてはいけないので、人の魂は永遠に孤独なのだから。そして私は極めて威勢よく、さういふ念仏のやうなことを考へはじめた。
「私はいつも神様の国へ行かうとしながら地獄の門を潜つてしまふ人間だ。」
この小説をはじめて読んだとき、こんなにも惹きつけられる文頭があるのかと思った。"神様の国"と"地獄の門"という言葉は、観念的でありながらも、「私」の性分をよくあらわしている。
この小説は、「私」が女に抱く肉慾と、節操観念はまるでないのに不感症である"女"が主題となる物語である。
この物語における"女の不感症"は、単に性的接触が苦手なのではなく、他者との関わりの拒絶の表象だと考えられる。ただ、女は「誰かを愛する」という感情は持ち合わせている。
そして「私」が愛しているのは、女の肉体のみで、女には恋はしていない。
ここに、「私」(=男)と女の欲望と恋愛感情の不一致が認めれる。
「私は海を抱きしめていたい」というタイトルにある海。男と女の肉慾(肉体)と魂(精神)の、それぞれの満足が得られず、「孤独」に陥った「私」を包み込む存在として、海は登場する。
堂本剛さんの歌詞を読んでいると、この小説と同様に肉欲(肉体)と魂を分離させ、孤独と愛を描くことが多いことに気づかされる。
ひとが求め続ける自由って 外にあると思ってた
だけれども本当の自由って 心にある世界だね
孤独になることを恐れて 染まること覚えて
起きて・眠るを繰り返して 無垢を忘れないでね?
「ある世界」堂本剛
堂本剛さんは「本当の自由」を「心にある世界」=自分自身の内側にある世界 であると歌詞にしている。
不幸や苦しみ、恐れの側には「孤独」がある。
堂本剛さんの描く歌詞には、孤独がどのような性質であるのかを丁寧に描かれたものが多い。それだけ、彼が孤独というものに向き合ってきたからだろうと、私は思う。この孤独というのは、社会的な孤独ではなく、自分自身の内側(=精神的)にずっと存在する"孤独"という感覚なのだろう。
TU FUNK以降、ENDRECHERIに引き継がれるのは、官能的な歌詞。これは単にFUNKとの親和性があるだけでなく、人間の求める愛のかたちや孤独を埋める術。それとも魂の孤独を感じた時に、正反対の場所にあるモチーフなのかもしれない。
「私」の孤独を包み込む存在が「海」であったように、剛さんの孤独を救いあげるために彼は"FUNK"を歌い奏でるのだろう。
エドガー・アラン・ポー「ウィリアム・ウィルスン」
さしあたり、私は自分をウィリアム・ウィルスンという名にしておくことにしよう。わざわざ本名をしるして、いま自分の前にあるきれいなページをよごすほどのことはない。その私の名前は、すでにあまりにわが家門の侮蔑の──恐怖の──嫌悪の対象でありすぎている。
妙に思われるかもしれないが、ウィルスンが我慢ならない反抗精神で敵対して私を絶え間なしに不安にさせていたにもかかわらず、私はどうしてもまったく彼を憎むという気にはなれないのであった。たしかに二人はほとんど毎日のように喧嘩をしたが、その喧嘩では、彼は表向きは私に勝利をゆずりながらも、なにかの方法で、ほんとうに勝ったのは彼であることを私に感じさせるようにした。
それは私の敵手であった、──それは断末魔の苦悶をしながらそのとき私の前に立ったウィルスンであった。彼の仮面と外套とは床の上に、彼の投げ棄てたところに、落ちていた。彼の衣服中の糸一本も──彼の顔のあらゆる特徴のある奇妙な容貌のなかの線一つも、まったくそのままそっくり、私自身のものでないものはなかった!
これは所謂ドッペルゲンガー(自己像幻視)ものの小説である。
語り手と同名であるWilliam Wilsonが、自分に嫌がらせや付き纏いを行うようになる。またあるときは彼が助言のささやきを行い、自分を助けてくれる。どんな時にも現れる彼に逆上した語り手がWilliam Wilsonを一突きしようとした瞬間、William Wilsonは「私自身」であることに気がつく……といったようなストーリーである。
私がこの物語を読んだとき、思い起こしたのは「堂本光一」と「SHOCKにおけるコウイチ」の 二つの存在であった。
自分自身と同じ名前を持つ物語を、1700回以上*2演じ続ける堂本光一さん。
SHOCKのコウイチは、あの同じ世界を幾度も死んでは、また生き返る。
観客は、コウイチの生きる世界を「オフ・ブロードウェイのフィクション」であると認識しているが、それと同時に、同じ名前を持つ堂本光一本人の姿を脳裏によぎらせる。もし、SHOCKを完全に虚構の世界の物語とするのであれば、役名はコウイチではなく架空の名前でなければならない。
観客が、コウイチと堂本光一を同一視することにより、SHOCKにおけるリアリティは真に迫ってくるのだ。
William Wilsonのように、「二つの自己」は表裏一体の存在である。全く別の性格を持っている他者だと思い込んでいたのに、それは自分自身の姿だった。
"演じること"は、全く別の自己を表現する手段である。それでありながら、堂本光一さんはコウイチという名を背負う。それは、役と本人の正反対の性格をより顕在的にし、コウイチの奥に重なる堂本光一さんの姿を映し出すのだ。
以上、KinKi Kidsのイメージから、私の好きな小説を選んでみました。
今回、剛さんに選んだ「私は海を抱きしめていたい」は、初めて読んだ瞬間から堂本剛さんとの親和性を感じていました。
光一さんの「ウィリアム・ウィルスン」は、かなり悩んだ末に選出した作品。
加藤武雄「君よ知るや南の国」という少女小説が次点でした。(オペラを志した少女の帝劇歌唱シーンがある物語) ただし、全集以外には絶版状態なので*3今回は光一さんとコウイチという観点から選ばせていただきました。
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